たまには何も考えず動いてみると、ドラマチックな出会いがあるのかもしれない
物語は1950年代の南アメリカ。
アルゼンチンで寄宿学校の教師を務めていた「私」は
ウルグアイの友人のアパートメントにて休暇を過ごしていた。
翌日はウルグアイを発つという日の夕方、重油にまみれたペンギンの群れを見つける。
砂浜を埋め尽くすペンギンの遺体の中に、一羽だけもがく個体を見つける。
どうしますか?
この時代の一般的な動物愛護的な考え方がわからないのですが
「誰かを呼びにいく」それくらいしか思い浮かびませんでした。
そもそもここには休暇にきただけで詳しいわけではないので、どこに連絡すればいいのかなんて
全くわかりません。
ですがこの「私」、この重油まみれのペンギンを連れて帰ったのです。
友人から使っていいよと言われ滞在していたアパルトマンに連れ帰って、べったりとまとわりつく重油を取り除いたのです。
さらにこのペンギンを隠して、自分の勤務先であるアルゼンチンの寄宿舎に連れて行くのです!
寄宿舎につくまでは公共交通機関をつかい、かつ税関も通過しなければいけません。
本の中とは知ってますが、この突飛なまでの移動は読んでいてはらはらするものでした。
序盤の移動中は何かと排泄物が登場します。
「なんでこのタイミングでしたの…?」と突っ込みたくなるタイミングで出てきます。
生理現象とはいえ、全くの空気読めてない感じがユーモラスです。
(もっともペンギンなので空気は読めませんが)
寄宿舎についてからの活躍はただのペンギン以上です。
ファン・サルバドールと名付けられた彼の活躍は実際読んでいただきたいです。
多感な時期に寄宿舎で過ごす少年たちに、このファン・サルバドールは寄り添い
ただペンギンがいるだけなのに、こんなにも生徒らが生き生きするのは
実に魔法のようでもあります。
読んでいるこちらまでにこにこしてしまいます。
また楽しいだけでなく「私」は時折ファン・サルバドールを預け
ペンギンが住む場所を探し、生態を調べ、
彼が自然に還すにはどうしたらいいのかも考え続けます。
「学校で生徒に、職員に愛されている現状が本当にいいことなのか。」
ですが彼を自然に還すことは難しいと判明し、彼はそのまま学校で愛され続けました。
生徒のよき兄になり、見守る神になり、また悩みを聞いてくれるものとし
生徒だけではなく、職員、また街の人々にも愛されるようになります。
そしてファン・サルバドールは不意に不在となります。
「私」が旅行に出かけた時、預け先で急激な体調不良となりそのまま帰らぬものとなりました。
現在自然動物を持ち出し、持ち込みは密輸となって犯罪行為です。
(もっとも当時も禁止されていましたが)
当時のおおらかさ、わるくいえば適当さがこの物語を生んだともいえるでしょう。
そしてファン・サルバドールがいたことで皆が癒されたり、奮起したことは
ペンギンとヒトの枠を超えたことだったのかもしれません。
終盤は「私」が当時を振り返り、再度アルゼンチンに向かいます。
そもそもファン・サルバドールは「私」が捕まえて袋に突っ込んだとき
抵抗を続けなかったのでしょうか。
最後にその理由が書いてあります。
ファン・サルバドールは「私」を仲間と認識していたのです。
本来ペンギンは群れで生活するのです。
仲間が重油まみれでなくなったそこにやってきて助けてくれた「私」を
ファン・サルバドールはすぐに「仲間」と認識していたのです。
だから彼はずっと「私」といて
ファン・サルバドールとしてそこにいたのでしょう。
タイトル:人生を変えてくれたペンギン ー浜辺で君を見つけた日
著者:トム・ミッチェル 訳者:矢沢聖子
出版社:ハーパーコリンズジャパン
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